原作という箔

今年の大河ドラマ『風林火山』、けっこう好きだ。
久々に、迫力のある大河ドラマである。
なぜ迫力があるのか考えていた時、掲示板の書き込みを見てその答の一つが見つかった。
このドラマ、善人がいない。
登場人物はそれぞれ生きること、勝つこと、出世することに必死であり、他人を思いやる余裕がない。
それが画面に緊張感を生んでいる。
思えばここ数年、大河ドラマの主人公たちは、役にもたたん上っ面の平和主義を口にする人間ばかりだった。
リアリティのない善人など必要ない。

b0054053_15561348.jpgもう一つ感心するのは、武田晴信役の市川亀治郎という人。
後に信玄となる人物の度量の大きさを表現できているのではなかろうか。
21歳の若造が。
見る前は、大事な役にどこの馬の骨を連れてきたのかと思った。
名前からわかるように、歌舞伎役者である。
今まで歌舞伎以外の演劇に出たことはほとんどないだろうに、なぜいきなり現れ、立派に演じることができるのか……。
歌舞伎役者にはこういう人が多い。不思議だ。



それはそうとこのドラマに関し、一つ気になっていることがある。
井上靖氏の原作との関係だ。
原作の小説は、大長編ではない。文庫本で350ページ足らず。
従ってこの小説を忠実に映像化するだけでは、45分×50回に渡る超長編ドラマを制作することはできない。
原作という骨組みに、膨大な量の肉付けをしなくてはならない。
今年のドラマでは、骨組みさえ継ぎ足している。ドラマの第1~8回は、原作に一行も書かれていない。脚本家の完全なオリジナルである。

以前の大河ドラマでは、もっと極端な例があった。
1990年放映の『翔ぶが如く』。
西郷隆盛と大久保利通が主人公の、幕末~明治維新~西南戦争を描くドラマである。
後に僕は、司馬遼太郎氏の原作を読んで驚いた。
小説が始まるのは、幕末の激動も明治維新もすっかり終わった西南戦争前の日本だった。
つまり幕末~明治維新の部分は、実は原作には全く無かったのである。
この部分の方が全体の2/3に及ぶ長時間であり、ドラマとしても面白かった。



僕が気になるのは、以下の点。

一つは原作者側から見て。
ここまで原作の原型をとどめない姿にまで改変しておいて、それでも元の小説を「原作」と称することが、法的・道義的に許されるのかということ。

もう一つはドラマの制作者側から見て。
現実問題としてドラマオリジナルの部分の方が比重としてはるかに大きいのに、それでも原作がある、と示す必要があるのかと。
それは、脚本家を始めとした制作者の「手柄」を減じることになるのではないか。
知らない人が見れば、『風林火山』の1~8回も井上靖が書いたと思うだろう。
著作権の問題も、多少気を付ければクリアできると思う。
大河ドラマは史実や、歴史学上の通説を重視する。
同じ人物を描けば、多かれ少なかれ似たような話になる。
山本勘助が関ヶ原まで生き残って東軍の軍師となったというような話には、どうあがいてもならないのである。
だから、セリフをそのままぱくるような事さえしなければ、小説を盗用したと言われることはないだろう。

それでも大作家を原作として冠に戴く理由は、ドラマに箔を付けたいこと、そして作家のファンをドラマに呼び寄せたいからに他ならない。
僕も井上さんや司馬さんの原作だからドラマが見たいと思うことはよくある。
しかし再度同じ事を言うことになるが、ここまで原作の形を消しておいてそれでも大作家の名を借りるのは、こすっからい。
そして脚本家の手柄を半減するものである。
もうそろそろ、何から何までNHKのオリジナルだと豪語していい。
そうすべきだし、その方が実態に即している。
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by SAKICHI_I | 2007-03-09 15:57 | その他 | Comments(0)


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